ktmのブログ

未知日記を読んだ心象を記事として記録しています。なのでこれは独り言です。

No.42

何も考えずに惰性でいると、外部からの刺激に反射的に生きている。またその受け取り方も過去の習慣性により人それぞれ。すべて相対的なものと感じる。その外界からの刺激は言葉に変換されて自分の中で"これはこういうことだ"と納得している。その言葉の内容も自分が変わる度に変化している。”他のものに心を移さず~からの文について、先ず”我等に身も心も任せて歩み居らば”の我等の存在を信ずる心を持ちたい。実際のところはまだ”有難い教えの中の架空の存在”くらいに思っているかもしれない。日常生活の中で常に教主はじめ貴尊方の目があるとの意識を保てていない。動物性に実感を持っているせいなのか。

動物性…動物は外部からの刺激に反射的に生きている。虫が触覚を動かしながら彷徨うイメージ。

物質的なものはエントロピーの法則のようにやがて崩壊し平衡状態になる。それに逆らうものは情報との事。情報…知性や智慧を情報と置き換えると魂や生命意志と言われるものも何となく実感できる。そこに知性がなければこの世は崩れていくだけ、又は何もない平衡状態の死の世界なのかもしれない。

何となく智慧に太陽のイメージが湧く。

No42


1時間くらいかけて記事を書いてみたのですが手違いで全て消えてしまいました。           (´・ω:;.:...

もっと良く読み込んでから書きなさい!との貴尊方からのメッセージかもしれませんね。また明日読み直してからもう一度書いてみよう。

NO.41

休日になるとついこれまでの習慣性、惰性で過ごしてしまいます。休日くらいはのんびり過ごして身体をやすめないと…と

ダラダラと過ごしていると普段より調子を崩すのもそれは自然の法則では無いからなのかもしれません。恐ろしきは習慣性「惰性」。

肉体は使うと消耗するのだから休ませれば回復する…というのも固定観念かもしれません。長い連休など何もせず_(:3」∠)_していると身体中が痛みだし、何故?と思うことが多々ありました。貴尊方のように分秒の休みなく働く存在が居るとすれば働く方が自然で健康的なのでしょうね。

趣味でギターをやっています。その練習も、初めは何時間もやったりやらなくなったりしているうちはなかなか上達しなかったのですが、毎日欠かさずやると少しずつ身につくものがありました。それも習慣性のなせる技なのでしょうね。本当に身につくと無意識でも出来ます。自分の腕を動かす時、頭や心で「腕よ動けー」とやっていない、無言の何かで実際は動いているその何か… その何かにアプローチするには習慣性を変えることが大事なのではと思いました。