ktmのブログ

未知日記を読んだ心象を記事として記録しています。なのでこれは独り言です。

第十講 絶対界と不滅母の関係No.6

全宇宙と云ひ宇宙と称するも唯言葉の相違にて、始めなく終りなきものの中に於て、唯種々様々に変化するにすぎざれば、帰するところはその変化も絶対の中に含まれあるが故、相対と云ふも絶対の部に属するならん。不滅母の中にありて合しては離れ、離れては合するにすぎざるなり。人体と雖も種々様々の細胞が結合して組織され、其が又分解されて破壊となるにすぎず。地球と雖も種々様々のものの結合によつて組織せられたるものなれば、是等と雖も何日かは分離されて形を止めざるに至らん。すべてのものが不滅母に立ち返れば、又もや形を変へて他のものに組織さるるは、是即ち不滅母霊子のはたらきなるが故なり。依つて死滅と云ふとこはあらざるなり。是を自由自在に変化せしむるものは誰ぞと、仔細に検討せば形を有せざる神を知ること難きにはあらざるならん。無始終霊子と云ふは即ち神の力なりと見なすならば、神は何処にありやを知ることを得ん。されど是は云ふべくして事実に於てさとること難し。云ふべくして行ひ難きは空論なりと思ふなかれ。言葉にて現はさるるものなら何事もなしてならざることなし。さればたとえ空論なりと云ふとも行ひ難きことはあらざるなり。我等も諸子も机上の空論と称する言葉を用い居れど、是を仔細に検討するならば空論として現はさるる以上、なしてならざる事のあるべきようなし。諸子の世界に於て古来用いられ居る言葉に、翼なければ空とび難しと称し居りたる時代もありしに、今は翼なき身を千里万里の空を自由にかけめぐることを得るにてはあらざるか。空論は実を生む親なるべし。所謂空論は実の母なり。言葉の母なりと云ふも、敢てこじつけの理屈にはあらざるならん。有気論を盛に称へ居る人はあれど、無気論に至つては未だその程度低し。無気の理を原因に逆上つて考究せば、諸子の智慧の程度によつて語り得らるる事ならば、なしてならじと云ふことは一としてあらずと云ふも、敢て過言にはあらざるなり。何となれば諸子の智慧は余りに低し。

第十講 絶対界と不滅母の関係No.5

有魂の理をきはめ無魂の理をきはむるにあらざれば、すべては明白とはならざるなり。諸子の修行は未だ有心より無心に至り居らざる人きはめて多し。故に迷ひを深くしてさとる事を得ざるなり。有心と云ひ無心と云ふも一体化すれば有心となる。されど是等をはたらかす力備はりたるが故に、時には無心にもはたらかせ有無何れにもあれ、自由に是を廻転せしむる具備を有するが故に、一方的にあらずしてはたらきの力すぐるるなり。有心無心自由に使用することを得れば、有魂に向つてのはたらきは顕著となる。然してその魂を発見することを得て無魂の方向にむけなば、是又有無の魂が一体化する事は云ふ迄もなし。有心無心一体化する程度迄の修養修行は非常に努力を要す。されど有魂無魂を一体化せしむる修養は、さのみ努力を要せずともなし得らるるものにて、是には苦痛を伴ふものにあらずと知らば可ならん。霊の有無に至つては学ばずとも自づと自得することを得るが故に、これは修養修行の必要はあらざるなり。霊の境地に至つてここにはじめて神を知ることを得るなり。諸子よ、神を知らんとならばこの処迄修養修行せよ。然らずば到底神を知ること難し。神界は遠きにあらず、神界は近し。

  諸子の俗言に正直の頭に神宿ると云ふあらん。是を我に云はしむれば正直不正直に不拘、神は汝に宿ると教ゆるものなり。即ち正直なるものは神を恐れず。不正直なるものは神を恐るるの相違ならん。神は正不正に不拘汝にあり。神を知らざるものは盲者にして、神を知るものは活眼者なり。宗教者は善事をなさしめんが為の方便として神仏を語る。我等は然にはあらざるなり。善者にも神あり、悪人にも神あることを知らしめ居るなり。ここに於ても宗教者と我等との相違はあるなり。我等の語る神は善悪の関係に不拘、唯神の許に諸子を誘はんとするに力め居るなり。諸子は教主によつて教へをうけ、然して無言詞界を知ることを得て迷ふことなく天界に移さるる喜悦を得るならば、我等の任務は果さるるなり。

  目を開けて空を見よ。日月は輝き星はきらめく。されど彼等は黙々として言葉なし。然して諸子を導き居るにてはあらざるか。眼を伏せて大地を見よ。山川草木すべては言葉なし。されど諸子を導く。春の花は春を知らしめ、樹木のみどりは夏を知らしむ。四季悉く言葉なくして教へ居るにてはあらずや。彼等は己の分を守りて他を犯さず。故に語らずして教へをなす。是等に比ぶれば我等は言葉もて諸子を導かんとしてならざるは、我等の力我等の任務、其等に比して劣ると知る時、如何に宇宙の自然の尊きかに頭をたるる他なし。無の力はかくも大なり。諸子の言葉に言はぬが言うに勝ると云へる比喩は、実に尊し。今や欣情の如く無心に入らんとして有心の中をさまよひ居る姿、恰も道なき雑草の中を否茨の中を歩み居る姿に等し。煩悩とは斯くの如き始末にわるきものなり。早く焼きすてて大地の土に返へすべし。今一歩のところなればたゆまず無心の位置をたづね求めよ。是は欣情に注意す。迷ふ勿れ。落胆する勿れ。汝には慈音と云へる友のあることを力とせよ。余事にわたりたり。もとに復すべし。

第十講 絶対界と不滅母の関係No.4

一度教へを受けなば相寄り相助けて共に共に道を歩むべし。己のみぬけがけの功名をせんなど愚なる心を起すこと勿れ。拝みせよと教へられて諸子は唯外をのみ拝す。是等は拝みにあらず。泰岳の如く処かまはず所嫌はず拝みをなし居りたるが故に、早く天界の地に引き上げられて円満したる霊と化せられたるなりとの話は、円海によつて諸子も知りたるならん。外を拝むにあらず。心より己が魂に通ぜしむる方法を、拝みと云ふなり。初心者はこのことを忘れず。如何なる心起るとも、その心の善悪邪正に不拘魂に拝むべし。拝みと云ふは心を魂に通ぜしむる方法と知らば可なり。自問自答も拝みなり。心に問ひ心に答ふるは自尊心の拝みにして、其は、雲と雲との交わりを深くするにすぎず。心の雲を払ひて魂の光を求めんがための拝みせざるべからず。自問を心より起し、自答を魂より聞く。是にて修養修行は一歩一歩進み行くなり。法を教へられて法を用いず、唯考へに耽り居りては無益の修養なり。斯る事は速かに改めて法によりて道を求めよ。他人より物をきかれて是に答ふるにてはあらざるか。是即ち自問自答の法と何等異なる事なし。諸子は円海にたづねて教へを受く。是即ち自問自答の法に合ふ。されば多くの人を集めて共に共に相たづね、其によつて正しき答へを求め居らば、知らず知らずの裡に修養修行の達せられる理も明らかならん。一家得道すれば九族天に生ずの言葉もみな此理に合ふ。

  諸子は常に有気性なる魂を、無気性にして其まま保存なし居るが故に、魂の偉大なる力のめぐみを受くる事を得ざるなり。前巻にも述べ居る如く魂(こん)は有気性にして表面化し、魄は無気性にして是を補佐す。魂(たましい)と云ふ言葉は魂魄一体を指して語り居るなり。魂(こん)表面化すともその魂(こん)の裏面には、無気性の存在なし居るが故に、智慧は如何に使用すとも決して絶ゆるものにあらず。此理も諸子は認識なし居るならん。日本の言葉の霊(たま)とは魂を云ふならん。是を仏教にては仏と云ひ、ヤソ教にてはイエスと称して是を神の子称へ居る迄にて、謂はば神の子とは魂(たましい)を指すなり。何れの宗教に於ても一脈相通ずるにてはあらざるか。我等の説も是等とは何等異なるところなし。仏教の中に般若心と云ふも魂(たましい)を指すなり若是等は言葉の相違にて帰するところは魂(たましい)なり。般若心と云ふは智慧の心と云ふ意味ならん。智慧と云ふは即ち魂を指すなり。されど霊と云ふに至つては、ここに我等と宗教者との其に、相違ある事に留意せざるべからず。宗教者は霊と云はば魂と同一の関係に語り居る事多し。我等の語る霊と大なるへだたりあるなり。諸子は宗教より霊感とか称して、神憑りとか神の声なりとか語り居るを耳にす。我等の語る霊界とはこの点に至つて相違ある事に着目せよ。霊は宇宙全宇宙のはたらきをなすものにして神にもあらず。又諸子の思ふ神にもあらざるなり。謂はば霊とは神の世界なりと思はば、あたらずと雖も遠からざる関係と考るるも差支えなからん。是等の事は教主によつて教へを受けよ。有気のものを発見する事は易けれど、無気のものを発見する事は難し。故に修養修行して有気より次第に逆上って無気に迄到らしむるにあらざれば、その何なるかをきはむること難きは当然なり。故に行ずる人は先づ有心を次第に逆上つて無心の境に到らしめ、その無心の境より更に有魂に通ぜしめ、更に進んで無魂の状態迄逆上らしめ、然して霊智の有気無気迄到らしむれば、其にて全く修養修行は終りとなるなり。現今慈音は有魂より無魂の境地に置れ居るなり。されど彼は未だ霊の有無に迄達し居らざるが故に迷ひ居るなり。