ktmのブログ

未知日記を読んだ心象を記事として記録しています。なのでこれは独り言です。

第九講 有気と無気との働かせかたについてNo.6

此無気に関して学理的に説明することを得れど、無知蒙昧の人或は無学の徒に語るとも、認識せしむること難きが故に、唯斯くすれば斯くなると語りし事柄が、現今に至つて迷信妄信となりたること余りに多し。故に科学者が宗教迄排斥するに至りたるなり。もとより無気の原理よりそれが枝葉に入りたるため、全くかけはなれたる呪い(まじない)など多きため、学理にて考ふるも明らかならざる点少なからずあるなり。例へば命数尽きたる人の姿を見る時、何か一種の淋しみを感ずる如き体験は諸子にもあるならん。是を写真する時其像が朧気に映り居りて明瞭ならざる如きことの例は往々見らるる現象なり。是を易者などが見て此人は生命ながからずと語るならば、八卦など信じ難しと思ひ居りしに其人死せりと聞かば、八卦も徒事にあらずと信ずるに至らん。斯る事はすべて中途因果の観察によるが故に、斯る迷ひを誘発すれど、根本原因なる無気学より考察する時は、敢て不審するには足らざるなり。現今命数を明らめ得る機械が案出せられ居るにてはあらざるか。即ち是等は有気性より案出したるものなれど帰するところは、無気の現はれに他ならず。斯る微々たる事に於てすら枝葉にわたれば迷ひを生ぜしむるに至る。故に無気学原理を認識したる人ならば、迷信盲信の区別は説明することを得て、愚者を迷はすことをなさずとも可ならん。諸子は唯何事に限らず迷信盲信として、己の智識に合はざれば、悉くを排除なすは賢者のなすことにあらず。其には何か原因あらんとの考へを深くして、すべてを考察なし居らば一大発見は得らるる筈なり。昨夜(七月十七日夜)慈音が或夫人に対して語りし如く家相学などは取るに足らずと思ふ勿れ。もし家を建て空気の流通悪しければ、其家には病人の断間なかるべし。是等は家相悪き故なりと教へ居るを我は聞きたり。是が枝葉にわたりて物置相とか又は眠相とか云ふが如きなどは迷信の如く思ふならん。されど空気の流通悪きところに不潔のものを置ば、尚更種々の黴菌繁殖して病者を出す如き事もあらん。又眠るにあたつても汚れたる空気の方向に頭ををきて眠るならば、悪き空気を呼吸するが故に、是又病苦を伴ふことの理も察せられるならん。されば是等の事も一概に、迷信盲信として排斥するにも及ぶまじ。一家の中にも有気の流通悪き部屋あり、又陰鬱なる部屋もありて、心身をなやますことのあるは我等よく見るところなり。是等は空気学無気学より判断すれば、確かに判明すること難きにあらず。されど是等を余り細き点に迄追究し居らば、其処に一種の御幣を伴ふ。是等は即ち迷信の部に属すことは云ふ迄もなし。又家を建つるにその土地の湿度濃厚なる処に、建設せばその家は水気蒸発して是又病者を出すならん。是地相学の示めすところ、決して迷信にはあらざるなり。円海が慈音に教へし如く、空海と云ふ僧は三十巻の易書を暗記して、無気学の道理をきはめたるが故に、彼の残したる功績は極めて顕著なりと語り居るを我は聞きたり。気学の力は斯くも偉大なる発見をなさしむるに、便なる学問なりと知らば可ならん。

第九講 有気と無気との働かせかたについてNo.5

無気学を研究せば迷信妄信は悉く排除することを得るなり。有気学のみにては往々間違いを生ず。されど無始終霊子より研究するならば、無気学有気学共に同一歩調を辿るものにて誤つものにあらず。中途因果の法則を旨とし居る諸子の世界なるが故に、甲論乙駁絶ることあらざるなり。絶対性原理とは即ち無始終霊子を、原因として研究するにあらざれば成立するものにあらず。兎に角無気と云ひ有気と云ふも、帰するところは数を伴はざる一にして、其が用法によつて或は無気、或は有気と方向を異にするに他ならずと知らば可ならん。

 我、今聞き居たる話によれば、欣情は隣家の亡霊より、肉体生存者の幸福とは何かと反問されて、当惑なし居る姿を見る。此場合欣情の心は唯廻転するのみにて、何等の働きもなすことあたはず。瞬間と雖も静止の止むなきに化せられたるを見る。是即ち無気の現はれが慈音を通じて有気となり、その有気のはたらきが欣情に及びて、彼女を無気の姿に追ひこめたるに他ならず。所謂欣情の心が動揺し居りて、有気と無気のはたらきが交々廻転なしたるに他ならざるなり。この理より無気の研究を進めなば、従つて無気のはたらきの如何に重大なるかに思ひ至らん。限度ある諸子の心は斯くの如し。限度あるが故に行き詰まりを生ずるなり。是を魂に迄通達せしむる力具はりあらば、魂より忽ち心に返答を与ふるが故に、如何なる場合に於ても行き詰まりを生ずる如きことあらざるなり。魂と心との相違は斯る処にも研究資料のあることに留意せよ。然して無気と有気の関係も、其によつて研究せば従つてうなづき知ることを得て、正しきさとりは開らかるる筈なり。無気は有気をつくる原動力なるが故に、無気の大切なることは推して知ることを得るならん。

第九講 有気と無気との働かせかたについてNo.4

今や慈音はこの無気の教へをうけて盛に研究なし居るにて、有気の原理は既にきはめ尽しての後なるが故に、彼は無気に対して日夜工夫もし行じ居るなり。無機の原理を把握してそれによつてすべてにあたらば、決して暗黒の世界にふみ迷ふものにあらず。盲者の慈音に於てすら行ずればかく迄進み得る具備あると知らば、何不自由なき諸子に於てならじと云ふことあらざるべし。努力しては如何!山間幽谷に足を入るるにも及ぶまじ。居ながらにしてこの理を悟る力さへ具はらば何処に居するも可ならん。諸子よ。決して迷ふことなくいたづらの考へを捨てて、研究に研究を重ねられん事を望む。

 無気に無気を加ふれば有気と化し、無気より無気を減ずれば、無気と化する理をよくよく工夫し見よ。然して是を両方にわたつて延長して考ふれば、一方は有気帯となりて表面化し、一方は減退して無気帯と化す。されど絶対無と云ふことはあらざるなり。もし絶対無となりて無を伴はざる無とならば、其にて絶滅するの他なし。されどかかることはあらざるなり。故に是を名づけて無始終霊子と称しをきたるなり。所謂無始終霊子に立ち返れば無の極致ともなり、或は有の極致ともなる。無と云ふも無始終霊子迄かへせば、有の極致と同様の結果となる故なり。無始終霊子に立ち返へれば、有無共に絶対に化せらるる故なりと承知せよ。有の原理も無の原理も帰するところは一なり。所謂数字を伴はざる一となるなり。さればその用法の法の相違によつて或は光気素となり、或は気光素となることの理は、常識より考ふるも明らかならん。所謂考古学者は過去を研究し、進化学者は未来を研究すると同様の関係なれど、諸子の学問は現在を中心にして或は過去に、或は未来に研究するが故に、ここに於て過ちを生じ誤算することの少なからざるは、是即ち中途因果の法則によるが故なり。是を無始終霊子より研究する時は、すべては同一なるによつて誤算することはあらざるなり。我等諸子に対して、学問を指導するにあらざれば是以上多くは語らじ。唯その原理のみ語りをくに止むべし。