ktmのブログ

未知日記を読んだ心象を記事として記録しています。なのでこれは独り言です。

第十講 絶対界と不滅母の関係No.3

兎に角絶対界とは不滅母界を指すにて、不滅母は多くの霊子を産み育て、其が宇宙或は全宇宙を造り居ることの理は、最早諸子にも理解する事を得たらん。是等は宇宙全宇宙の組織なるが故に、別段諸子の修養修行の材料とするには余りに広大無辺にして、たとえ其理をきはめ尽すとも修養修行の為には、聊か縁遠き感じの如く思はるるならん。又是等の理を知りたりとて己自らが修養修行の糧とならずばさとることは得難し。されど是等宇宙全宇宙の備はりが諸子の肉体はおろか心魂霊に到る迄、同一の備はりある事に早くめざめよ。全宇宙の姿は縮小せられて、汝ら自らが受けたる一個の肉体と何等異なる事なしとの考へより、道を求むるならば其にて修養の一大事を知りさとることを得るなり。 

   兎に角一大事は七月二十二日(昭和二十五年)こだま会に於て円海が細々語りたる如く、自己に有する魂なるものを見きはむるは初心者にとりて、最も大切なる事なり。初心者の間は、魂と心の区別、明らかならざるが故に迷ふなり。心のはたらきは動物性にして、魂のはたらきは人間性なりと聞かされて、唯然あるかとのみの思ひにて生活なし居りてはさとりは得難し。有気の如く思はるる魂は、無気の動作をなし居るが故に、諸子には発見することを得ざるなり。無気のものを引き出して、これを有気に化せしめて魂と同化せしむる時、初じめて魂の有気のはたらきをなすと云ふ考へを起すならば、法は学ばずとも己の力に相当する程度より工夫せば、明らかに法を考案する事難きにはあらざるなり。誰かの句に「有漏路より無漏路(印刷は有路路となっている)にかへる一休み、風吹かば吹け雨ふらはふれ」と云ふ句は前にも記したり。風吹くも雨ふるも動ぜざる心、或は柳の如く逆らはずまかせ居るならば、心には反射作用を起こすものにあらず。反射作用をおこすは何か心にわだかまりを有し居りて、所謂風吹かば風にさからひ、雨ふらば雨にさからふ。斯ることにては枝葉の折るるは当然なり。枝葉折れ幹倒るれば其にて終りとなる。斯くすれば斯くなると思ひながら、斯くする事を得ざるは、即ち反射力の作用がわざわひなし居るなり。

  反射力を起すは己の心の尊きを未だ忘れ居らざるが故なり。我等は諸子に対して諸子の有する魂こそ、唯我独尊なりと教へたれど、諸子の心を唯我独尊とは教へざるなり。所謂諸子の思ひは自尊心にして、我等の教へは自尊魂を云ふなり。自尊心は早くすつべし。然らずば反射力がぬぐひ去られず。煩悩心のみ盛となりて、却て魂を汚すのみ、注意せざるべからず。よく聞く処なるが、我等愚者にして、道理を聞きて然あるかと思ひながら、是を止むる事を得ずと。是等はすべて自尊心より出づる反射力にして、謂はば口にこそ愚者と云ひ居れど心の底には賢なりとの、意識が作らき居る故なり。斯るたわけたる事は速かにすてよ。悪き心起らば其悪き心を悔ひ改めて、魂に清浄なる水をあたへよ。

第十講 絶対界と不滅母の関係No.2

 今慈音が、欣情に向つて早く自己に有する魂の何なるかを発見せよと、さとし居るを我は聞きて喜ぶを感じたるなり。人間に生まれて魂を知らざる人は宝の山に入りて手を空しくして帰るに等し。不滅母霊子より生れしめられたる魂を持ちながら、その広大無辺なるはたらきをすら知らずして、空しき一生を送る如きは、是人道を誤ちて動物界の一路を辿り居るに他ならず。我等は諸子に対して自然に順ぜよと云ふは動物性をはなれて、人間性に立ちかへれよとの意味に他ならず。正しき人道を歩みなば直ちに、霊界の方向に進むは火をみるよりも明らかなり。我等は霊界の事を細々語りたれど、諸子に理解することの得ざるは心のみはたらかせて動物性を旨として、人間性をおろそかになし居るが故に、口をきわめ筆をきはめて語るとも、諸子には理解することを得ざりしなり。不滅母に立ちかへるには先づ魂と云ふ大切なる宝を探り求めて、その威力によつて霊界を照しなば、明らかにすべてを知ることを得て、易々天界に上ることを得るなり。魂と云ふ大なる輝きを有するものを早く見きはめよ。然らずば未知日記全巻を読むとも其は空し。種々様々の理窟を考ふることなかれ。兎に角無条件に魂を発見せよ。然して後論議あらば問ふべし。未知日記全巻を読みたらば魂を見出す方法は記されあるによって、訳もなく発見することを得るなり。

   一切衆生悉くが不滅母或は無始終霊子より次第に現出して現はされたる姿なりとして、考察する時は植物には植物の個性あり。動物には動物の個性あり、人間には人間の個性あることは、論議するの余地なからん。所謂絶対性原理より現はれたる相対なるが故に、逆上れば絶対にかへり、順に進めば相対に変ず。故に相対は絶対の中に含有したるものなりとの理より、すべてを考察せば明らかに覚ることを得るなり。諸子の考へはその時々其折々に関して浮び出づる雲の如し。風吹かば忽ち飛散す。徒らに雲をよびて光をさへぎらしむること勿れ。徒らの考へは任務にあらずして休みとなる。休まず任務を粗略にせずば其にて事足る。諸子の智慧は心の働きに他ならず。心のはたらきは魂の一部分にすぎざるなり。仏教者の云ふ煩悩とは心のはたらきを云ふならん。然して仏と云ふは魂を指すなり。是等の教へは誤ちたる導きにあらず。我等に云はしむれば正しと証明して差支なし。心のはたらきにのみ囚はれて、日々を送り居る人は是煩悩のいとなみなるが故、動物性なり。煩悩を滅却せしめて仏の境地になれと云ふは、即ち動物性をはなれて人間性に立ちかへれよとの意味に、解釈すれば其にてよし。是等は未知日記前巻にも認めあれば多くを語るの要もなからん。

第十講 絶対界と不滅母の関係

この書の始めより説き来りたる如く無始終霊子は、不滅母の子なりと語りたり。不滅母と云ひ無始終霊子と云ふも帰するところは一にして、何れを其と定むることあたはざるなり。是等はとにかく言葉の相違にて、諸子に語り居るにすぎず。無始終霊子は種々様々のものの集合にして、是を統括したるものを名づけて不滅母と承知せられたし。故に絶対界と云ふは帰するところ不滅母の世界なりと思ふも差支なからん。不滅母の中には有気あり、無気あり、有形あり、無形あり、すべてが不滅母の中に、包含せられたるものなりとして考察せば、従つて理解することを得るならん。有形のもの変じて無形のものに化せらるる時、其は滅したるにあらずして、即ち不滅母に帰したるなりと思ふならば、すべてのものは変化するのみにして、滅するものにあらずとの結論となるならん。是が相対性となりて相方が両立し行くも是みな、不滅母の関係あるによつてなり。諸子の世界の如く是非の区別を定めんが為に、甲論乙駁してはては水掛論となりて何れを其と定むることあたはざるも是みな、不滅母の具はりあるによつて斯くは化せられあるなり。故に物の理を究めんとせば不滅母の絶対迄立ちかへつて、然してその始めより考察するにあらざればものの理を明らかにきはむること難し。斯る事は云ふべくして行ふことは得難し。其は人間の力にては到底及ぶべくもあらざるが故なり。此理を明らかにせんとならば人間界より進んで、其以上のものに進化するにあらざれば望みは叶ひ難し。故に人間には人間としての本分を全うして、然してその任務終りて後、更に以上のところに進むことに努力せざるべからず。其には先づ人間の何なるかをよく覚り、よく究めて其道に順応して他に心を移さず、魂を完全に育てて方向を誤たしめざる用心肝要なるべし。兎に角人と生まれたる以上、先づ第一に自己に有する魂を、発見することの大切なることは云ふ迄もなし。