ktmのブログ

未知日記を読んだ心象を記事として記録しています。なのでこれは独り言です。

未知日記と言霊

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ユーさんのブログが再開して嬉しい。絶対界の転記は終わった。もうブログに書くべきことも無いけれど、一つあるとすれば

言霊と未知日記

この二つを合わせて見た視点


未知日記にも言霊について語られている。

元々コトタマノマナビの分からない部分を模索中に未知日記に出会いすっかり没頭してしまった。


二年間無中で読み続けた。


思い返せば未知日記を読みながらもう一面、コトタマノマナビを心中に参照しつつ、関連性を見出そうとしていた。


一個人としてこのふたつをあれこれ解説するにはあまりにも畏れ多い為、自分だけの内証に留めていたけれど、とてつもなく理解が進むのでやはりここに書いておこうと思います。


コトタマノマナビは島田正路氏の「古事記と言霊」

これに尽きると思います。他のよくある、コトダマのパワーで願望が叶う…のようなものはよく知りません。


未知日記にもある通り真の言霊の理解は未知日記の内容を掴むのに絶大な効果があるように思います。無関係では無い。


未知日記は難しいです。無言詞や空を掴むには積み上げた知識では出来ない。その為にはコトタマノマナビが大きなヒントになる。逆もしかりで言霊を掴むのに未知日記は、これほどまで懇切丁寧な解説はありません。


嗚呼、誰かこの事実を知っている方はいらっしゃるのでしょうか…

因果論

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ユーさんの更新が途絶えてから因果論の続きを過去記事から探して本日読み終わる

ユーさんは次、何を載せたかな。

講外別記3

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さればたとえ善念にもあれ、悪念にもあれ念を残すこと勿れ。宗教者は善念を残すべし。悪念は残すべからずと教へ居れど、我等は然りとは思はざるなり。又然にはあらざるなり。念を残さば魂は分離を妨げられて昇天すること難きが故なり。慈音の母の如く善念を残しをきたるため、空中楼閣をつくる結果となりたることに徴しても、其理は明らかに知る事を得ん。教への道は後輩者のための導きなれば是は永久残しをくべし。されど悪業と云ひ善業と云ふも宗教者の語る業とは、我等に云はしむれば念の部類に属すると思ふなり。仏教者の教へに因果の法則として業のことを語り居れど、是等は行為の上に於て現はれたる一種の行為なるによつて、其は導きの教へとは又別個の関係ありと思ふなり。心清き人は善業を残し、心悪き人は悪業を残す。是が嵩じて念とならば善念悪念の二種に化せられるやも計られざるなり。されど人を導くための善業は残すとも罪とはならざるべし。故に教へとなる行為ならば其は残しをくも可ならん。されど己自らが天界へ昇るべき妨げとなる行為ならば其は残すべからず。是等の事柄は何れ諸子も理解する日の遠からじと思ふなり。よつてここに詳細は語らじ。兎に角念を残すことなきやう工夫して、修養修行せざれば無気の理をきはむること難し。念と云ふも肉体の有する間は無形に属す。然して肉体滅すれば是が有形と化してはたらく。肉体滅しての後の念のはたらきは、有形より無形の方向にむかひて働くによつてその力は顕著となるなり。念は心の凝り固まりたるものにて魂にはあらざるなり。されど魂の力をからずば念の力はうすし。故に魂とのきづなを断つことなくはたらくが故に、魂はこれに惹かされて昇天することの妨げとなるなり。念の力に於てすら斯くも微妙なるはたらきをなす。これ即ち無気の力のすぐれたるが故なり。例へば念の力の強き人は恰も弓矢の如く一直線なるが故に、目的のものに対しては顕著なるはたらきをなす。されど魂のはたらき強き人は光明の如くなるが故に、その力にぶきが如く感ぜらるれど八方十方に通じてあまねくすべてに通ず。念の力と魂の力はかくも相違あるなり。無気のはたらきは斯くの如き関係ありと知らば可ならん。

  円海がこだま会の人に語り居る如く小時にても慈音の傍にながく坐せよと語り居るも、無気の力のはたらきを暗に諸子に伝へ居ること知るべし。

  即ち念の力は有気より無気に、更に其を直ちに有気に変ぜしむる具備を有す。魂の力は無気より無気へと持続してはてしなく、其が対象物に至らば有気に化してはたらく具はりあるが故に、かくも相違ありと知るべし。此理より考察するならば自づと法は得らるる筈なり。無気を無気にてはたらかしめ居らば、其にて目的は達せらるるなり。然るに無気のものを種々様々考ふるときは、無気は有気に化せらるるによつて、無気のはたらきは有気に変ず。故に研究する人は無気を無気として、何処迄も無気より無気へと追ひ求めて、有気化せしめざれば軈て無気の極致に至り、ここにはじめて無気の原理を発見することを得るなり。無気を考ふれば既に其は有気なり。考ふること勿れ。考へずしてそのまま追ひ求め居らば、其にて目的に達せらるると知るべし。依つて行ずる人のための参考として、この事を語りをきて此書を閉づることとせん。