ktmのブログ

未知日記を読んだ心象を記事として記録しています。なのでこれは独り言です。

第九講 有気と無気との働かせかたについてNo.7

兎に角無気より有気に至らしむる故に、是等の気力が人心に及ぶのみならず、延いてはすべての動植物に至る迄通達なし居ることは異論の余地なし。唯諸子にはそのはたらきの原因を認識することを得ざるに他ならず。気学の真髄をきはめなば、世の中に不思議と云ふもの一としてあらざるなり。悪魔と云ふも気のはたらきに他ならず。言葉によつて人心に動揺をあたへしむるも、有気より無気に通ぜしむるによつて変化を与へ居るに過ぎざるなり。諸子は常に気を柔らげてその気を平になし居らば、すべての事柄が気によつて物事を明らかに知る事を得るも、敢て至難にはあらざるなり。故に未知日記前巻に於て気にかかる事は、早く清除せよと云ひしも皆この理によるが故なり。例へば物事を考へすぎて頭をなやます時は、脳に欠陥を生じて神経性の病者となる。是等も気の病ひに基因するが故なり。常に気を平にして脳に力をあたへ居らば、かかる憂はあらざる筈なり。是にはその迷ひを解く為の方法として宗教の必要もあらん。家相の悪き家に住居して身心に障碍を来さば、是又生命に迄及ぼす結果となる故に生活の為には家相も必要とならん。心の迷ひを解かんとして路傍の易者に占ひを乞ふ。その信不信はともあれ、其等の事によつて気力を取り戻すことを得るならば、敢て無用のものにもあらざるべし。又加持祈祷呪(まじない)などの行ひと雖も、其等によつて気の病ひを浄化することを得るならば、是又一つの方便にして、敢て排斥するにも及ぶまじ。肉体の病ひは医薬によつて治癒され、気の病ひは種々様々の方法によつて清除せらるるならば、迷信盲信もあながち粗略なるわざとして棄つるにも及ぶまじ。唯かかるものは世人を迷はして、其によつて却て害となることならば、其等は排除して可ならん。

第九講 有気と無気との働かせかたについてNo.6

此無気に関して学理的に説明することを得れど、無知蒙昧の人或は無学の徒に語るとも、認識せしむること難きが故に、唯斯くすれば斯くなると語りし事柄が、現今に至つて迷信妄信となりたること余りに多し。故に科学者が宗教迄排斥するに至りたるなり。もとより無気の原理よりそれが枝葉に入りたるため、全くかけはなれたる呪い(まじない)など多きため、学理にて考ふるも明らかならざる点少なからずあるなり。例へば命数尽きたる人の姿を見る時、何か一種の淋しみを感ずる如き体験は諸子にもあるならん。是を写真する時其像が朧気に映り居りて明瞭ならざる如きことの例は往々見らるる現象なり。是を易者などが見て此人は生命ながからずと語るならば、八卦など信じ難しと思ひ居りしに其人死せりと聞かば、八卦も徒事にあらずと信ずるに至らん。斯る事はすべて中途因果の観察によるが故に、斯る迷ひを誘発すれど、根本原因なる無気学より考察する時は、敢て不審するには足らざるなり。現今命数を明らめ得る機械が案出せられ居るにてはあらざるか。即ち是等は有気性より案出したるものなれど帰するところは、無気の現はれに他ならず。斯る微々たる事に於てすら枝葉にわたれば迷ひを生ぜしむるに至る。故に無気学原理を認識したる人ならば、迷信盲信の区別は説明することを得て、愚者を迷はすことをなさずとも可ならん。諸子は唯何事に限らず迷信盲信として、己の智識に合はざれば、悉くを排除なすは賢者のなすことにあらず。其には何か原因あらんとの考へを深くして、すべてを考察なし居らば一大発見は得らるる筈なり。昨夜(七月十七日夜)慈音が或夫人に対して語りし如く家相学などは取るに足らずと思ふ勿れ。もし家を建て空気の流通悪しければ、其家には病人の断間なかるべし。是等は家相悪き故なりと教へ居るを我は聞きたり。是が枝葉にわたりて物置相とか又は眠相とか云ふが如きなどは迷信の如く思ふならん。されど空気の流通悪きところに不潔のものを置ば、尚更種々の黴菌繁殖して病者を出す如き事もあらん。又眠るにあたつても汚れたる空気の方向に頭ををきて眠るならば、悪き空気を呼吸するが故に、是又病苦を伴ふことの理も察せられるならん。されば是等の事も一概に、迷信盲信として排斥するにも及ぶまじ。一家の中にも有気の流通悪き部屋あり、又陰鬱なる部屋もありて、心身をなやますことのあるは我等よく見るところなり。是等は空気学無気学より判断すれば、確かに判明すること難きにあらず。されど是等を余り細き点に迄追究し居らば、其処に一種の御幣を伴ふ。是等は即ち迷信の部に属すことは云ふ迄もなし。又家を建つるにその土地の湿度濃厚なる処に、建設せばその家は水気蒸発して是又病者を出すならん。是地相学の示めすところ、決して迷信にはあらざるなり。円海が慈音に教へし如く、空海と云ふ僧は三十巻の易書を暗記して、無気学の道理をきはめたるが故に、彼の残したる功績は極めて顕著なりと語り居るを我は聞きたり。気学の力は斯くも偉大なる発見をなさしむるに、便なる学問なりと知らば可ならん。

第九講 有気と無気との働かせかたについてNo.5

無気学を研究せば迷信妄信は悉く排除することを得るなり。有気学のみにては往々間違いを生ず。されど無始終霊子より研究するならば、無気学有気学共に同一歩調を辿るものにて誤つものにあらず。中途因果の法則を旨とし居る諸子の世界なるが故に、甲論乙駁絶ることあらざるなり。絶対性原理とは即ち無始終霊子を、原因として研究するにあらざれば成立するものにあらず。兎に角無気と云ひ有気と云ふも、帰するところは数を伴はざる一にして、其が用法によつて或は無気、或は有気と方向を異にするに他ならずと知らば可ならん。

 我、今聞き居たる話によれば、欣情は隣家の亡霊より、肉体生存者の幸福とは何かと反問されて、当惑なし居る姿を見る。此場合欣情の心は唯廻転するのみにて、何等の働きもなすことあたはず。瞬間と雖も静止の止むなきに化せられたるを見る。是即ち無気の現はれが慈音を通じて有気となり、その有気のはたらきが欣情に及びて、彼女を無気の姿に追ひこめたるに他ならず。所謂欣情の心が動揺し居りて、有気と無気のはたらきが交々廻転なしたるに他ならざるなり。この理より無気の研究を進めなば、従つて無気のはたらきの如何に重大なるかに思ひ至らん。限度ある諸子の心は斯くの如し。限度あるが故に行き詰まりを生ずるなり。是を魂に迄通達せしむる力具はりあらば、魂より忽ち心に返答を与ふるが故に、如何なる場合に於ても行き詰まりを生ずる如きことあらざるなり。魂と心との相違は斯る処にも研究資料のあることに留意せよ。然して無気と有気の関係も、其によつて研究せば従つてうなづき知ることを得て、正しきさとりは開らかるる筈なり。無気は有気をつくる原動力なるが故に、無気の大切なることは推して知ることを得るならん。