ktmのブログ

未知日記を読んだ心象を記事として記録しています。なのでこれは独り言です。

第九講 有気と無気との働かせかたについてNo.2

諸子の言葉に去る者は日々に疎しと云ふあらん。その言葉の如く有気が次第々々に去り行けば、軈ては無気に化せられる事の意味なりとして考究し見よ。有気の中に含まれ居る無気の力は、ものを遠ざける方向に向ひ居る如く感ぜられるならん。然りとせば有気のはたらきより無気のはたらきが、何れを大なる力ありやと云ふに至つてここに又一種の迷ひを生ずるならん。有気は結合を意味し、無気は分離を意味すとも考へられるにてはあらざるか。是を逆に考ふれば無気が次第に進みて有気を現はすとも見ることを得ん。故に有無は一体の関係と見なすことも、敢てこじつけにはあらざるならん。陰陽一体化して始めて音を現はす。音とは即ち進み退くの結合を意味するならん。諸子の世界は有気にのみ重点をおき、無気の方面には余りに無関心なるが故に、一方的となりて、即ち光気素の世界と化せられ居るが故に、大切なる無気の研究は未だ完全ならざるなり。故に物事は偏りたる方向に走りて、安からぬ世界を持続なし居るなり。さればとて無気の方向にのみ向ひて、有気を粗略にせば是又暗黒の世界となる。故に有無一体の研究を進めざれば、目的は達し難し。ものには順序あり。諸子の世界は順逆をあやまちて研究なし居るが故に、光気素の世界となり居るなり。是を我等に云はしむれば逆法と云ふなり。すべてのものは無より有を現はすは順序なり。故に気光素の研究ならでは、順法とはならざるなり。気光素は無より有を現はす方法なるが故なり。諸子は有機科学より、無機科学の方面に研究を進め居れどこれを反対に、無機科学より有機科学の方向にむけば如何に!されど是は諸子の世界には至難なることにして、云ふべくして行ひ難き教へとなることは、我等もよく知るところなり。