ktmのブログ

未知日記を読んだ心象を記事として記録しています。なのでこれは独り言です。

第九講 有気と無気との働かせかたについて

未知日記前巻自在論に於て語りをきたる如く光源体性気源体性なるもの、即ち、是等も帰するところは気に他ならず。光源と云ふも気なり。然らば光源は如何なる気に属するやと云ふに、諸子の考へにては肉眼に映る光は光気と思ふならん。肉眼に見ゆる光は、気によつてすでに実在化なしたるものにて、謂はば空の中の実在に化せられ居ると見ば可ならん。光なき光迄逆上って考究するにあらざれば、気源体を発見すること難し。我等の語る光明とは即ち光源体性を云ふなり。是光を有せざる光なるが故なり。

  気源体性に於ても亦同様にして、気の現はれがすでに諸子の肉体に感じて、種々様々のはたらきを感ずる底のものは、すでに空の中の実在化せられたるものにして、是を逆上つて肉体に迄感じざる底の処迄、追求して考究するを要す。これを知らんとならば気源体性に迄、追究するにあらざれば知ること難し。今ここに掲げたる題目の有気とは、即ち光源体性を意味し、無気とは即ち気源体性と見なして考へを進めざるべからず。無気と云ふも有気と云ふもすべては気のはたらきを指すにて、光明に浴すると云ふも無気のはたらき、有気のはたらき共に通じて力あるが故なり。されば無気も光明にして、有気も亦光明なることは察せらるるならん。諸子は、光明に浴し居るが故に生活なし居るなり。もし此光明に浴することなくんば忽ち死体と化せらるるなり。その光明とは何か。諸子は心づかずしてあるならん。即ち呼吸なり。呼吸は光明に浴し居るが故なり。呼気は熱にして光に属し、吸気は冷にして無気に属す。即ち呼吸は陰陽の関係にて光気素のはたらきをなすによつて、是を光気素の光明と云ふなり。空の中に実ありと語りしは是なり。口鼻より呼吸するは空の実にして、肉体全身より呼吸するは空の空なりと知らば可ならん。