ktmのブログ

未知日記を読んだ心象を記事として記録しています。なのでこれは独り言です。

2024年3月のブログ記事

  • 第九講 有気と無気との働かせかたについてNo.5

    無気学を研究せば迷信妄信は悉く排除することを得るなり。有気学のみにては往々間違いを生ず。されど無始終霊子より研究するならば、無気学有気学共に同一歩調を辿るものにて誤つものにあらず。中途因果の法則を旨とし居る諸子の世界なるが故に、甲論乙駁絶ることあらざるなり。絶対性原理とは即ち無始終霊子を、原因とし... 続きをみる

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  • 第九講 有気と無気との働かせかたについてNo.4

    今や慈音はこの無気の教へをうけて盛に研究なし居るにて、有気の原理は既にきはめ尽しての後なるが故に、彼は無気に対して日夜工夫もし行じ居るなり。無機の原理を把握してそれによつてすべてにあたらば、決して暗黒の世界にふみ迷ふものにあらず。盲者の慈音に於てすら行ずればかく迄進み得る具備あると知らば、何不自由... 続きをみる

  • 第九講 有気と無気との働かせかたについてNo.3

    例へばここに大なる地震をこりて多くの被害をあたへたる時、その後に至つて研究すとも其は後の備へのために計る方法となるに依つて、所謂葬式すんでの医者ばなしとなるにすぎざらん。是を順に研究するならば、地震の発生せざる以前に予知する方法を講じをかば、災害をまぬがれ得る事は誰も異論の余地はなかるべし。有より... 続きをみる

  • 第九講 有気と無気との働かせかたについてNo.2

    諸子の言葉に去る者は日々に疎しと云ふあらん。その言葉の如く有気が次第々々に去り行けば、軈ては無気に化せられる事の意味なりとして考究し見よ。有気の中に含まれ居る無気の力は、ものを遠ざける方向に向ひ居る如く感ぜられるならん。然りとせば有気のはたらきより無気のはたらきが、何れを大なる力ありやと云ふに至つ... 続きをみる

  • 第九講 有気と無気との働かせかたについて

    未知日記前巻自在論に於て語りをきたる如く光源体性気源体性なるもの、即ち、是等も帰するところは気に他ならず。光源と云ふも気なり。然らば光源は如何なる気に属するやと云ふに、諸子の考へにては肉眼に映る光は光気と思ふならん。肉眼に見ゆる光は、気によつてすでに実在化なしたるものにて、謂はば空の中の実在に化せ... 続きをみる

  • 第八講 魂霊のつとめは気なりNo.10

    我今欣情慈音に対して注意することあり。汝等舜策故人に対する質問は余りに必要ならざることを聞き居る事は悪し。日々生活に於て己自らが修養の糧となるべき方向に向かつて、質問し其によつて己が徳をつむことに努力せよ。斯ることは気に対して重大なる事柄なるによつて注意なしをくものなり。空しき質問は却て修養のさま... 続きをみる

  • 第八講 魂霊のつとめは気なりNo.9

    魂の気によつて相手方の精神状態を鑑別し、其によつて適宜の処置をなすは、霊気の任務なるが故なり。例へば相手方の性質を、魂によつてさとり得たらば、そのものに対して魂気が働かんとする時、霊気を伴ひて共に是にあたるが故に、任務は完全にはたさるると知らば可なり。故に悪化せしめんとすれば霊気は是に従ふ。善化せ... 続きをみる

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  • 第八講 魂霊のつとめは気なりNo.8

    ここに注意することあり。魂の気と心の気との鑑別法は、如何にせば良きかと云ふに対して一言語りをくべし。例へば人と相対する時俄かに一種の気力が感じ来る底の如きは作りたる気なるが故に、是等は心気と見なして可なり。されど相対したる時より一種の霊気に打たれて、我自ら威儀をただすの止むなきに至る底の気力は、先... 続きをみる

  • 第八講 魂霊のつとめは気なりNo.7

    今も慈音と欣情が国家の再建に対して、憂慮の言葉もて語り居るを我は聞きたり。両人の語るところを聞けば、日本の如き戦乱のあと今尚人心動乱して安からぬ世相にありて、是を再建せんと計り居る政治家の常識の不完全なるに対して、痛歎なし居るを聞く。実に尤なることなり。されど是等は光明論に於て教主の語られし如く、... 続きをみる

  • 第八講 魂霊のつとめは気なりNo.6

    諸子の口にし居る神懸りと称するものは、すべて気の現はれに他ならず。気の感じをうけて其が神懸りの如く、又神の声とも聞かれて迷ひを深くし居るなり。即ち神懸りとか云ふことは、霊気の波長にすぎざるなり。我かく語れば慈音と我との間は如何。これ等も気の感じなるかと疑ふならん。もとより我と慈音との関係は霊気と霊... 続きをみる