ktmのブログ

未知日記を読んだ心象を記事として記録しています。なのでこれは独り言です。

第九講 有気と無気との働かせかたについてNo.5

無気学を研究せば迷信妄信は悉く排除することを得るなり。有気学のみにては往々間違いを生ず。されど無始終霊子より研究するならば、無気学有気学共に同一歩調を辿るものにて誤つものにあらず。中途因果の法則を旨とし居る諸子の世界なるが故に、甲論乙駁絶ることあらざるなり。絶対性原理とは即ち無始終霊子を、原因として研究するにあらざれば成立するものにあらず。兎に角無気と云ひ有気と云ふも、帰するところは数を伴はざる一にして、其が用法によつて或は無気、或は有気と方向を異にするに他ならずと知らば可ならん。

 我、今聞き居たる話によれば、欣情は隣家の亡霊より、肉体生存者の幸福とは何かと反問されて、当惑なし居る姿を見る。此場合欣情の心は唯廻転するのみにて、何等の働きもなすことあたはず。瞬間と雖も静止の止むなきに化せられたるを見る。是即ち無気の現はれが慈音を通じて有気となり、その有気のはたらきが欣情に及びて、彼女を無気の姿に追ひこめたるに他ならず。所謂欣情の心が動揺し居りて、有気と無気のはたらきが交々廻転なしたるに他ならざるなり。この理より無気の研究を進めなば、従つて無気のはたらきの如何に重大なるかに思ひ至らん。限度ある諸子の心は斯くの如し。限度あるが故に行き詰まりを生ずるなり。是を魂に迄通達せしむる力具はりあらば、魂より忽ち心に返答を与ふるが故に、如何なる場合に於ても行き詰まりを生ずる如きことあらざるなり。魂と心との相違は斯る処にも研究資料のあることに留意せよ。然して無気と有気の関係も、其によつて研究せば従つてうなづき知ることを得て、正しきさとりは開らかるる筈なり。無気は有気をつくる原動力なるが故に、無気の大切なることは推して知ることを得るならん。