ktmのブログ

未知日記を読んだ心象を記事として記録しています。なのでこれは独り言です。

第九講 有気と無気との働かせかたについてNo.8

一服の薬を以て万病を治癒すと云ふが如き、完全無欠の薬品はあらざるべし。然るに薬屋の看板を見ればかかる誇大の広告を認めあるにてはあらざるか。是等を諸子は迷信とは思はざるや。諸子の世界には余りに矛盾したる事柄多し。是等を一々清除して正しきものに改めなば其にて可ならん。何はともあれ、気の力はかくの如き大なる作用を有す。然るに諸子は心の気のみ働かせて、魂の気をおろそかになし居るため御幣をおこして却て迷ひを深くなし居るなり。魂の気をはたらかせ、更に霊気を伴ひて是をはたらかすれば、完全無欠の世界は成立すること疑ひなし。

 諸子の世界には伝統的習慣より、気の病いを多くせしめ居ること少なからず。かかる事柄と雖もすべて、気学によつて是を清除すれば、忽ち消滅して元の位置にかへること疑ひなし。先にも語りし如く、生るれば悲しみ、死すれば悦ぶところの習慣あるに対して、生まるれば喜び死すれば悲しむ習慣性も、是皆伝統的気のはたらきに他ならず。是を論議するならば何れを是とし、何れを非とするや。唯いたづらに言葉の論争を交へて水かけ論と化するのみにて、明確なる判断に苦むのみならん。されど是等のものを清除せば、無用の論争の必要もなかるべき筈なり。すべては気のはたらきの方向をあやまち居るに他ならず。生るると云ふも迷ひなり。死すると云ふも迷ひなり。世人の定めし生死は我等に云はしむれば物の数にはあらざるなり。