ktmのブログ

未知日記を読んだ心象を記事として記録しています。なのでこれは独り言です。

第九講 有気と無気との働かせかたについてNo.9

理由なくして人を殺す。是を殺生として罪悪と見なすならば、戦争によつて多くの人命を奪ふ。是等も罪となるべき筈なるに不拘、是は正当防衛なりとして罪せらるるにあらずして、却て称美せらるるは実に滑稽至極と云はざるを得ず。諸子の世界には斯くの如き迷信妄信の絶えやらぬにてはあらざるか。我等の眼より見れば是等の悉くが迷信妄信として取り扱ふことを得るなり。何となれば勝手気儘の御都合主義の行為なるが故なり。現に神は悪魔を亡ぼし給はざるにてはあらざるか。正当防衛として殺してもよきものならば、神にはむかう悪魔は退治せらるる筈なり。然るに是を亡ぼし給はざるは何故ぞと考究し見よ。汝等の世界と神の世界とは、斯くの如き相違ある事にすら心づかずして、我儘気儘の行為を道理の如く考へて、世を治めんなどとは思ひもよらぬ愚なることなりと、我等は疑ふものなり。

   無始終霊子に立ちかへれば空々漠々として何も探り求むることを得じと考ふるは諸子の心なり。心を以て無始終霊子を探らんとするもそれは不可能にして、決して極致をきはむること難し。故にすべての考へすべての心をすて彼是論議することなく、無条件に一切悉くを捨てて裸体となれ。諸子には心と云ふ衣を纏ひ居るが故に、その心を脱ぎすてて裸体となりて、魂の姿を露出せしめよ。然してその魂の姿も亦裸体となりて、霊の姿迄現出する程度迄至らずば無気の原理を知ること難し。果して斯ることのなし得らるるや。云ふべくして行ひ難き説を語る我等をこそ諸子は嘲り嗤ふならん。実に然り。されど我等の説はきはめて強し。諸子には心の働きすべてを捨つることは聊か修行したる者なればさのみ至難とは思はざるべし。されど魂を捨てて霊にかへることは到底なし得られじと思ふならん。今や慈音は心の衣を脱ぎすてて裸体となり、魂を露出してふるへ戦き居るなり。其がその魂迄すてて霊に化する程度迄行ずるには容易のわざにあらず。故に彼はふるへて悶え苦み居るなり。隣家の故人と語り居るも魂と魂の語らひにて、裸体なるが故にこそ明らかにその語らひがなし得らるるにて、もし慈音が心の衣を纏ひ居らば決して語らひをなす事難きは是又事実なり。欣情は未だ心の衣を脱ぐ事あたはず、数多の衣装を重ね居るによつて彼等と語らひをなすことあたはざるなり。是は有気の観念未だ失せざるが故なり。有気無気の関係は先づかくの如し。次に講をかへて語る事とせん。