ktmのブログ

未知日記を読んだ心象を記事として記録しています。なのでこれは独り言です。

第九講 有気と無気との働かせかたについてNo.3

例へばここに大なる地震をこりて多くの被害をあたへたる時、その後に至つて研究すとも其は後の備へのために計る方法となるに依つて、所謂葬式すんでの医者ばなしとなるにすぎざらん。是を順に研究するならば、地震の発生せざる以前に予知する方法を講じをかば、災害をまぬがれ得る事は誰も異論の余地はなかるべし。有より無を追ふの方向にむかふと、無より有の方向にむかふとはかくの如き相違あることに留意せざるべからず。現在の学問はかくの如き有様なるが故に、日々の天気予報すらあやまちて報道すること多し。是を無気より研究するならば、斯る誤謬はあらざるなり。無気より有気の方向に研究なし居らば、天の自然は明らかとなるが故に、斯くなれば斯くなると云ふ結果は原因によつて完全に察することを得るなり。結果を先にして原因を逆にするが故に過ち多し。すべて世の中の事柄は原因をたしかむるにあらざれば、結果は判明せざることの理は諸子もよく知るところならん。

 ここに初対面の人来るとき、先づその人の姿を見て、彼は我に対して、何の要件ありて来りしやを知ること難からん。彼の言葉を聞くに及んではじめてその用件の何なるかを知るは、一般人の風習なるべし。是が無気の原理を認識したる人ならばその人の来たらざる以前に、最早何々の要件にて如何なる人が、我に来ると云ふ事を先に感受し居るなり。是無気の力によるなり。されど諸子にかかることをはかり得らるると語るとも、信をおく者一としてあらざるならん。是等は無気学の研究をなし居らざるが故に、理解することあたはざるなり。無気学原理を体得したるものならば、そは決して不思議の事にはあらざるなり。諸子の世界は余りに有気にのみ囚はれ居るが故に、かかる事のあるべき様なしとて放棄せられ居るなり。