ktmのブログ

未知日記を読んだ心象を記事として記録しています。なのでこれは独り言です。

第十講 絶対界と不滅母の関係No.4

一度教へを受けなば相寄り相助けて共に共に道を歩むべし。己のみぬけがけの功名をせんなど愚なる心を起すこと勿れ。拝みせよと教へられて諸子は唯外をのみ拝す。是等は拝みにあらず。泰岳の如く処かまはず所嫌はず拝みをなし居りたるが故に、早く天界の地に引き上げられて円満したる霊と化せられたるなりとの話は、円海によつて諸子も知りたるならん。外を拝むにあらず。心より己が魂に通ぜしむる方法を、拝みと云ふなり。初心者はこのことを忘れず。如何なる心起るとも、その心の善悪邪正に不拘魂に拝むべし。拝みと云ふは心を魂に通ぜしむる方法と知らば可なり。自問自答も拝みなり。心に問ひ心に答ふるは自尊心の拝みにして、其は、雲と雲との交わりを深くするにすぎず。心の雲を払ひて魂の光を求めんがための拝みせざるべからず。自問を心より起し、自答を魂より聞く。是にて修養修行は一歩一歩進み行くなり。法を教へられて法を用いず、唯考へに耽り居りては無益の修養なり。斯る事は速かに改めて法によりて道を求めよ。他人より物をきかれて是に答ふるにてはあらざるか。是即ち自問自答の法と何等異なる事なし。諸子は円海にたづねて教へを受く。是即ち自問自答の法に合ふ。されば多くの人を集めて共に共に相たづね、其によつて正しき答へを求め居らば、知らず知らずの裡に修養修行の達せられる理も明らかならん。一家得道すれば九族天に生ずの言葉もみな此理に合ふ。

  諸子は常に有気性なる魂を、無気性にして其まま保存なし居るが故に、魂の偉大なる力のめぐみを受くる事を得ざるなり。前巻にも述べ居る如く魂(こん)は有気性にして表面化し、魄は無気性にして是を補佐す。魂(たましい)と云ふ言葉は魂魄一体を指して語り居るなり。魂(こん)表面化すともその魂(こん)の裏面には、無気性の存在なし居るが故に、智慧は如何に使用すとも決して絶ゆるものにあらず。此理も諸子は認識なし居るならん。日本の言葉の霊(たま)とは魂を云ふならん。是を仏教にては仏と云ひ、ヤソ教にてはイエスと称して是を神の子称へ居る迄にて、謂はば神の子とは魂(たましい)を指すなり。何れの宗教に於ても一脈相通ずるにてはあらざるか。我等の説も是等とは何等異なるところなし。仏教の中に般若心と云ふも魂(たましい)を指すなり若是等は言葉の相違にて帰するところは魂(たましい)なり。般若心と云ふは智慧の心と云ふ意味ならん。智慧と云ふは即ち魂を指すなり。されど霊と云ふに至つては、ここに我等と宗教者との其に、相違ある事に留意せざるべからず。宗教者は霊と云はば魂と同一の関係に語り居る事多し。我等の語る霊と大なるへだたりあるなり。諸子は宗教より霊感とか称して、神憑りとか神の声なりとか語り居るを耳にす。我等の語る霊界とはこの点に至つて相違ある事に着目せよ。霊は宇宙全宇宙のはたらきをなすものにして神にもあらず。又諸子の思ふ神にもあらざるなり。謂はば霊とは神の世界なりと思はば、あたらずと雖も遠からざる関係と考るるも差支えなからん。是等の事は教主によつて教へを受けよ。有気のものを発見する事は易けれど、無気のものを発見する事は難し。故に修養修行して有気より次第に逆上って無気に迄到らしむるにあらざれば、その何なるかをきはむること難きは当然なり。故に行ずる人は先づ有心を次第に逆上つて無心の境に到らしめ、その無心の境より更に有魂に通ぜしめ、更に進んで無魂の状態迄逆上らしめ、然して霊智の有気無気迄到らしむれば、其にて全く修養修行は終りとなるなり。現今慈音は有魂より無魂の境地に置れ居るなり。されど彼は未だ霊の有無に迄達し居らざるが故に迷ひ居るなり。