ktmのブログ

未知日記を読んだ心象を記事として記録しています。なのでこれは独り言です。

第十講 絶対界と不滅母の関係No.7

我、今、科学者の声を聞く。彼は言う、科学は理をきはむればきはむるほど深淵にして、何処迄追い求むるも、到底人智の及ばざること遠しと語り居れり。然り、然あるなり。哲学者又然り。然るに宗教者は宗教上より理をきはめんとするもの稀なり。故に宗教は学者に怯えて次第に影を、うすらげ居ることも事実に於て見らるる現象なり。このまま進まば宗教は絶ゆべし。否絶ゆるにあらずして影を没せん。宗教者は早くめざめて尚一層この理をきはめ、その極致をきはめて進まざるべからず。研究せざるべからず。科学より宗教者は一歩々々先んぜずば、科学の力も或程度迄至つて終りとならん。斯る研究にては宇宙の原理はをろか、全宇宙の原理に至つては到底及ぶべくもあらざるならんと我等は痛歎するものなり。余事は兎に角此微妙なる全宇宙を自由自在に監督なし居るものを、仮に神として神の力の如何にすぐれたるかを、諸子の智慧の程度より推察し見よ。到底及ぶべくもなしと悲鳴をあぐるならん。諸子と神との隔りは斯くも遠し。是等の事柄は普通常識より考察するが故に、神との接触は計る事を得ざるなり。されどその至らぬ人間も神によつて神の力によつて造り出されたるものとして考ふれば、神は汝の親なるべし。故に神と汝は可分の関係に置かれたるものにあらず。神を遠く見るは恰も望遠鏡を逆になしたると同様なれど、是を順にかへして見るならば、神は汝の目前にあらん。心の持ちかた一つにて神を見んとならば忽ち見ることを得、神より離れんとならば忽ち離るることも得らるるなり。されど神の力を有する以上、神の力は汝に及びて決してはなるる事のあらざるは当然なるべし。深山幽谷に於て誰も作らざるに花は開らき実も亦結び居るにてはあらざるか。是等も即ち語らずして諸子の導きとなり居ることに、諸子は心附かざるのみなり。是諸子の智慧の余りに低き故なり。諸子が智慧すぐるれば草の言葉も、花の言葉も語らざるに、諸子の心に通ぜん。心の智慧は低し。魂の智慧とならば、草も木も何を語り居るかを知ることを得んこと疑ひなし。空吹く風にも言葉あり。枝より枝にとび交はす小鳥にも亦言葉あり。魂の耳開らけなば無言詞は有言詞となりて、その事柄の何なるかを魂に通ぜしめて、智慧のはたらきによつてすべてを知ること難きにあらず。空気の中にも声あり。言葉あり、姿あり、形あり、是を感受する魂の耳眼を開かば可ならん。言ふべくして行ひ難き空論と考ふること勿れ。諸子の知人の中に犬の言葉猫の言葉小鳥の言葉を解する人もあるにてはあらざるか。