ktmのブログ

未知日記を読んだ心象を記事として記録しています。なのでこれは独り言です。

第十講 絶対界と不滅母の関係No.2

 今慈音が、欣情に向つて早く自己に有する魂の何なるかを発見せよと、さとし居るを我は聞きて喜ぶを感じたるなり。人間に生まれて魂を知らざる人は宝の山に入りて手を空しくして帰るに等し。不滅母霊子より生れしめられたる魂を持ちながら、その広大無辺なるはたらきをすら知らずして、空しき一生を送る如きは、是人道を誤ちて動物界の一路を辿り居るに他ならず。我等は諸子に対して自然に順ぜよと云ふは動物性をはなれて、人間性に立ちかへれよとの意味に他ならず。正しき人道を歩みなば直ちに、霊界の方向に進むは火をみるよりも明らかなり。我等は霊界の事を細々語りたれど、諸子に理解することの得ざるは心のみはたらかせて動物性を旨として、人間性をおろそかになし居るが故に、口をきわめ筆をきはめて語るとも、諸子には理解することを得ざりしなり。不滅母に立ちかへるには先づ魂と云ふ大切なる宝を探り求めて、その威力によつて霊界を照しなば、明らかにすべてを知ることを得て、易々天界に上ることを得るなり。魂と云ふ大なる輝きを有するものを早く見きはめよ。然らずば未知日記全巻を読むとも其は空し。種々様々の理窟を考ふることなかれ。兎に角無条件に魂を発見せよ。然して後論議あらば問ふべし。未知日記全巻を読みたらば魂を見出す方法は記されあるによって、訳もなく発見することを得るなり。

   一切衆生悉くが不滅母或は無始終霊子より次第に現出して現はされたる姿なりとして、考察する時は植物には植物の個性あり。動物には動物の個性あり、人間には人間の個性あることは、論議するの余地なからん。所謂絶対性原理より現はれたる相対なるが故に、逆上れば絶対にかへり、順に進めば相対に変ず。故に相対は絶対の中に含有したるものなりとの理より、すべてを考察せば明らかに覚ることを得るなり。諸子の考へはその時々其折々に関して浮び出づる雲の如し。風吹かば忽ち飛散す。徒らに雲をよびて光をさへぎらしむること勿れ。徒らの考へは任務にあらずして休みとなる。休まず任務を粗略にせずば其にて事足る。諸子の智慧は心の働きに他ならず。心のはたらきは魂の一部分にすぎざるなり。仏教者の云ふ煩悩とは心のはたらきを云ふならん。然して仏と云ふは魂を指すなり。是等の教へは誤ちたる導きにあらず。我等に云はしむれば正しと証明して差支なし。心のはたらきにのみ囚はれて、日々を送り居る人は是煩悩のいとなみなるが故、動物性なり。煩悩を滅却せしめて仏の境地になれと云ふは、即ち動物性をはなれて人間性に立ちかへれよとの意味に、解釈すれば其にてよし。是等は未知日記前巻にも認めあれば多くを語るの要もなからん。