ktmのブログ

未知日記を読んだ心象を記事として記録しています。なのでこれは独り言です。

第十講 絶対界と不滅母の関係No.5

有魂の理をきはめ無魂の理をきはむるにあらざれば、すべては明白とはならざるなり。諸子の修行は未だ有心より無心に至り居らざる人きはめて多し。故に迷ひを深くしてさとる事を得ざるなり。有心と云ひ無心と云ふも一体化すれば有心となる。されど是等をはたらかす力備はりたるが故に、時には無心にもはたらかせ有無何れにもあれ、自由に是を廻転せしむる具備を有するが故に、一方的にあらずしてはたらきの力すぐるるなり。有心無心自由に使用することを得れば、有魂に向つてのはたらきは顕著となる。然してその魂を発見することを得て無魂の方向にむけなば、是又有無の魂が一体化する事は云ふ迄もなし。有心無心一体化する程度迄の修養修行は非常に努力を要す。されど有魂無魂を一体化せしむる修養は、さのみ努力を要せずともなし得らるるものにて、是には苦痛を伴ふものにあらずと知らば可ならん。霊の有無に至つては学ばずとも自づと自得することを得るが故に、これは修養修行の必要はあらざるなり。霊の境地に至つてここにはじめて神を知ることを得るなり。諸子よ、神を知らんとならばこの処迄修養修行せよ。然らずば到底神を知ること難し。神界は遠きにあらず、神界は近し。

  諸子の俗言に正直の頭に神宿ると云ふあらん。是を我に云はしむれば正直不正直に不拘、神は汝に宿ると教ゆるものなり。即ち正直なるものは神を恐れず。不正直なるものは神を恐るるの相違ならん。神は正不正に不拘汝にあり。神を知らざるものは盲者にして、神を知るものは活眼者なり。宗教者は善事をなさしめんが為の方便として神仏を語る。我等は然にはあらざるなり。善者にも神あり、悪人にも神あることを知らしめ居るなり。ここに於ても宗教者と我等との相違はあるなり。我等の語る神は善悪の関係に不拘、唯神の許に諸子を誘はんとするに力め居るなり。諸子は教主によつて教へをうけ、然して無言詞界を知ることを得て迷ふことなく天界に移さるる喜悦を得るならば、我等の任務は果さるるなり。

  目を開けて空を見よ。日月は輝き星はきらめく。されど彼等は黙々として言葉なし。然して諸子を導き居るにてはあらざるか。眼を伏せて大地を見よ。山川草木すべては言葉なし。されど諸子を導く。春の花は春を知らしめ、樹木のみどりは夏を知らしむ。四季悉く言葉なくして教へ居るにてはあらずや。彼等は己の分を守りて他を犯さず。故に語らずして教へをなす。是等に比ぶれば我等は言葉もて諸子を導かんとしてならざるは、我等の力我等の任務、其等に比して劣ると知る時、如何に宇宙の自然の尊きかに頭をたるる他なし。無の力はかくも大なり。諸子の言葉に言はぬが言うに勝ると云へる比喩は、実に尊し。今や欣情の如く無心に入らんとして有心の中をさまよひ居る姿、恰も道なき雑草の中を否茨の中を歩み居る姿に等し。煩悩とは斯くの如き始末にわるきものなり。早く焼きすてて大地の土に返へすべし。今一歩のところなればたゆまず無心の位置をたづね求めよ。是は欣情に注意す。迷ふ勿れ。落胆する勿れ。汝には慈音と云へる友のあることを力とせよ。余事にわたりたり。もとに復すべし。