ktmのブログ

未知日記を読んだ心象を記事として記録しています。なのでこれは独り言です。

第九講 有気と無気との働かせかたについてNo.4

今や慈音はこの無気の教へをうけて盛に研究なし居るにて、有気の原理は既にきはめ尽しての後なるが故に、彼は無気に対して日夜工夫もし行じ居るなり。無機の原理を把握してそれによつてすべてにあたらば、決して暗黒の世界にふみ迷ふものにあらず。盲者の慈音に於てすら行ずればかく迄進み得る具備あると知らば、何不自由なき諸子に於てならじと云ふことあらざるべし。努力しては如何!山間幽谷に足を入るるにも及ぶまじ。居ながらにしてこの理を悟る力さへ具はらば何処に居するも可ならん。諸子よ。決して迷ふことなくいたづらの考へを捨てて、研究に研究を重ねられん事を望む。

 無気に無気を加ふれば有気と化し、無気より無気を減ずれば、無気と化する理をよくよく工夫し見よ。然して是を両方にわたつて延長して考ふれば、一方は有気帯となりて表面化し、一方は減退して無気帯と化す。されど絶対無と云ふことはあらざるなり。もし絶対無となりて無を伴はざる無とならば、其にて絶滅するの他なし。されどかかることはあらざるなり。故に是を名づけて無始終霊子と称しをきたるなり。所謂無始終霊子に立ち返れば無の極致ともなり、或は有の極致ともなる。無と云ふも無始終霊子迄かへせば、有の極致と同様の結果となる故なり。無始終霊子に立ち返へれば、有無共に絶対に化せらるる故なりと承知せよ。有の原理も無の原理も帰するところは一なり。所謂数字を伴はざる一となるなり。さればその用法の法の相違によつて或は光気素となり、或は気光素となることの理は、常識より考ふるも明らかならん。所謂考古学者は過去を研究し、進化学者は未来を研究すると同様の関係なれど、諸子の学問は現在を中心にして或は過去に、或は未来に研究するが故に、ここに於て過ちを生じ誤算することの少なからざるは、是即ち中途因果の法則によるが故なり。是を無始終霊子より研究する時は、すべては同一なるによつて誤算することはあらざるなり。我等諸子に対して、学問を指導するにあらざれば是以上多くは語らじ。唯その原理のみ語りをくに止むべし。