ktmのブログ

未知日記を読んだ心象を記事として記録しています。なのでこれは独り言です。

第八講 魂霊のつとめは気なりNo.9

魂の気によつて相手方の精神状態を鑑別し、其によつて適宜の処置をなすは、霊気の任務なるが故なり。例へば相手方の性質を、魂によつてさとり得たらば、そのものに対して魂気が働かんとする時、霊気を伴ひて共に是にあたるが故に、任務は完全にはたさるると知らば可なり。故に悪化せしめんとすれば霊気は是に従ふ。善化せしめんとすれば霊気は又是に順ず。然してその善悪何れにもあれ霊気のはたらきは極めて強し。故に何れにも霊気は組みしてはたらく。是即ち霊気のつとめなるが故なり。霊気はつとめを粗略にせず。なすがままに是に順じて全きを得せしむるものにて、善悪正邪に不拘組すと云ふは此理なるが故なり。是即ち霊気は自由を有するが故なりと知らば可ならん。されば善悪正邪を正しく認識するものは即ち魂に帰す。故に魂を汚さば霊も是に従ふ。悪よりめざめたる魂が善に帰れば、霊は忽ち是に従ふ。すべては気のつとめが斯くも意味深長なる働きを有すと覚りなば、気の働かせかたの大切なることは察せらるるならん。

  悪を企めば悪鬼となり、善を企めば善鬼となる。すべては霊気の働きに帰すると知らば可ならん。魂気をはたらかすも霊気の流れにして、心気のはたらきも亦霊気の枝葉の流れに他ならず。帰するところは霊気なるべし。されば心魂を一体化せしめて正しき方向に気をむけ居らば、霊気は是に従ひて決して過誤ちを犯さしむるものにあらねば、心魂の修養修行の大切なることは推して知ることを得ん。是を名づけて我等は自然の姿と云ふなり。諸子の考ふる自然との相違も推して知ることを得たらんと思うふが如何!諸子は善事にのみ意を用い居らば、其が自然なりとして考へ居れど、我等の語るところとの隔りは多からん。善悪正邪は自然より生じたる枝葉に他ならず。故に善にのみ囚はるれば一方的となり、善悪正邪共に同様にて一方にのみ囚はるれば不自由となる。不自由となることは真の自然にあらず。真の自然は自由自在ならざるべからず。善悪正邪ものの数にあらざるなり。我等の説と宗教者の説とにはかかることに対して大なる相違あらん。宗教者は唯善事のみ勧奨めて、却て諸子の修養をせましくし居るが故に、諸子は真の自由を得ることあたはずして苦むなり。善悪正邪何れにも染まざる霊気に化せらるれば、善悪正邪は物の数にあらずとの理も、推して察することを得るならん。本然の姿とは霊気を求めて是に従へよと云ふことにて、天理に順ずと云ふは即ちこれなり。