ktmのブログ

未知日記を読んだ心象を記事として記録しています。なのでこれは独り言です。

第八講 魂霊のつとめは気なりNo.10

我今欣情慈音に対して注意することあり。汝等舜策故人に対する質問は余りに必要ならざることを聞き居る事は悪し。日々生活に於て己自らが修養の糧となるべき方向に向かつて、質問し其によつて己が徳をつむことに努力せよ。斯ることは気に対して重大なる事柄なるによつて注意なしをくものなり。空しき質問は却て修養のさまたげとなる。徒に心気を労すること勿れ。魂気を働かせて彼に質問の矢をむけよ。余事は兎に角己自らが真の自由を得んとならば、魂気と霊気を一体化せしめて其によつて求むるにあらざれば、自由自在の安楽は得難し。故人舜策の如く清浄無垢の魂と化せられ居るものは、魂霊の気のはたらきによつて動じ居るにて、欣情慈音の如き心気のみ常に動ぜしめ居るものとの感覚は余りにへだたり多し。今も語りし如く、子を育つるに我身を忘れよと云ふが如き願ひを、妻にあたへしにてはあらざるか。是等の言葉は正し。是魂気の現はれなるによつてなり。霊気に化するにあらざれば自然に順ずることを得ずとの理は、是等によつても察することを得るならん。今も故人が語りし如く彼の妻は、肉体生前の声、或は肉体の姿を聯想するによつて、彼の言葉は通ぜすと語りしにてはあらざるか。魂気の現はれは無言詞にして、其が有言詞に化せられてはじめて妻の心に伝はる。故に生前の彼の声をきき居りては錯覚にすぎざるが故に、正しき感じを受くることあたはざるなり。是等の事柄は未知日記前巻に語りをきたれど、今少しく詳しく語るの必要に迫られたれば、重複することの余義なきを諒とせよ。今も故人が語りし如く彼と妻は常に語らひを交へ居ると答へたり。諸子にはこの意味を解することを得るや。然らざるべし。魂気と魂気の交はりは常に斯くの如き関係あるなり。言葉なくして互にその何なるかをさとり得るは心にあらず。即ち魂と魂が相互語らひても通ずる力は即ち、霊気の自然に順ずるが故なり。所謂気と気の交はりにすぎざるなり。言葉なくとも気と気によつてその何なるかを知るものは、魂にして、魂が言葉を組織して、心に伝ふることは前にも語りし如くなり。もしその事柄に適当の言葉なき時は、魂も心も共に気に化せられるが故に、唯動揺するのみにて表面化すること能はざるに他ならず。是に霊気が加はらば言葉なき事柄が、何かの方法によつて表面化することを得るなり。魂気と心気のみにては現はし難き事柄も、ここに霊気を働かすれば直ちに現出することを得るなり。聊かむづかしき表現(いいまわし)なるが故に解し難からんと思へど、是は諸子の修養に対して参考迄に止めをくべし。何日かは教主の教へによつて是等の事柄は明らかに悟ることを得ん。