ktmのブログ

未知日記を読んだ心象を記事として記録しています。なのでこれは独り言です。

第十講 絶対界と不滅母の関係

この書の始めより説き来りたる如く無始終霊子は、不滅母の子なりと語りたり。不滅母と云ひ無始終霊子と云ふも帰するところは一にして、何れを其と定むることあたはざるなり。是等はとにかく言葉の相違にて、諸子に語り居るにすぎず。無始終霊子は種々様々のものの集合にして、是を統括したるものを名づけて不滅母と承知せられたし。故に絶対界と云ふは帰するところ不滅母の世界なりと思ふも差支なからん。不滅母の中には有気あり、無気あり、有形あり、無形あり、すべてが不滅母の中に、包含せられたるものなりとして考察せば、従つて理解することを得るならん。有形のもの変じて無形のものに化せらるる時、其は滅したるにあらずして、即ち不滅母に帰したるなりと思ふならば、すべてのものは変化するのみにして、滅するものにあらずとの結論となるならん。是が相対性となりて相方が両立し行くも是みな、不滅母の関係あるによつてなり。諸子の世界の如く是非の区別を定めんが為に、甲論乙駁してはては水掛論となりて何れを其と定むることあたはざるも是みな、不滅母の具はりあるによつて斯くは化せられあるなり。故に物の理を究めんとせば不滅母の絶対迄立ちかへつて、然してその始めより考察するにあらざればものの理を明らかにきはむること難し。斯る事は云ふべくして行ふことは得難し。其は人間の力にては到底及ぶべくもあらざるが故なり。此理を明らかにせんとならば人間界より進んで、其以上のものに進化するにあらざれば望みは叶ひ難し。故に人間には人間としての本分を全うして、然してその任務終りて後、更に以上のところに進むことに努力せざるべからず。其には先づ人間の何なるかをよく覚り、よく究めて其道に順応して他に心を移さず、魂を完全に育てて方向を誤たしめざる用心肝要なるべし。兎に角人と生まれたる以上、先づ第一に自己に有する魂を、発見することの大切なることは云ふ迄もなし。

第九講 有気と無気との働かせかたについてNo.9

理由なくして人を殺す。是を殺生として罪悪と見なすならば、戦争によつて多くの人命を奪ふ。是等も罪となるべき筈なるに不拘、是は正当防衛なりとして罪せらるるにあらずして、却て称美せらるるは実に滑稽至極と云はざるを得ず。諸子の世界には斯くの如き迷信妄信の絶えやらぬにてはあらざるか。我等の眼より見れば是等の悉くが迷信妄信として取り扱ふことを得るなり。何となれば勝手気儘の御都合主義の行為なるが故なり。現に神は悪魔を亡ぼし給はざるにてはあらざるか。正当防衛として殺してもよきものならば、神にはむかう悪魔は退治せらるる筈なり。然るに是を亡ぼし給はざるは何故ぞと考究し見よ。汝等の世界と神の世界とは、斯くの如き相違ある事にすら心づかずして、我儘気儘の行為を道理の如く考へて、世を治めんなどとは思ひもよらぬ愚なることなりと、我等は疑ふものなり。

   無始終霊子に立ちかへれば空々漠々として何も探り求むることを得じと考ふるは諸子の心なり。心を以て無始終霊子を探らんとするもそれは不可能にして、決して極致をきはむること難し。故にすべての考へすべての心をすて彼是論議することなく、無条件に一切悉くを捨てて裸体となれ。諸子には心と云ふ衣を纏ひ居るが故に、その心を脱ぎすてて裸体となりて、魂の姿を露出せしめよ。然してその魂の姿も亦裸体となりて、霊の姿迄現出する程度迄至らずば無気の原理を知ること難し。果して斯ることのなし得らるるや。云ふべくして行ひ難き説を語る我等をこそ諸子は嘲り嗤ふならん。実に然り。されど我等の説はきはめて強し。諸子には心の働きすべてを捨つることは聊か修行したる者なればさのみ至難とは思はざるべし。されど魂を捨てて霊にかへることは到底なし得られじと思ふならん。今や慈音は心の衣を脱ぎすてて裸体となり、魂を露出してふるへ戦き居るなり。其がその魂迄すてて霊に化する程度迄行ずるには容易のわざにあらず。故に彼はふるへて悶え苦み居るなり。隣家の故人と語り居るも魂と魂の語らひにて、裸体なるが故にこそ明らかにその語らひがなし得らるるにて、もし慈音が心の衣を纏ひ居らば決して語らひをなす事難きは是又事実なり。欣情は未だ心の衣を脱ぐ事あたはず、数多の衣装を重ね居るによつて彼等と語らひをなすことあたはざるなり。是は有気の観念未だ失せざるが故なり。有気無気の関係は先づかくの如し。次に講をかへて語る事とせん。

第九講 有気と無気との働かせかたについてNo.8

一服の薬を以て万病を治癒すと云ふが如き、完全無欠の薬品はあらざるべし。然るに薬屋の看板を見ればかかる誇大の広告を認めあるにてはあらざるか。是等を諸子は迷信とは思はざるや。諸子の世界には余りに矛盾したる事柄多し。是等を一々清除して正しきものに改めなば其にて可ならん。何はともあれ、気の力はかくの如き大なる作用を有す。然るに諸子は心の気のみ働かせて、魂の気をおろそかになし居るため御幣をおこして却て迷ひを深くなし居るなり。魂の気をはたらかせ、更に霊気を伴ひて是をはたらかすれば、完全無欠の世界は成立すること疑ひなし。

 諸子の世界には伝統的習慣より、気の病いを多くせしめ居ること少なからず。かかる事柄と雖もすべて、気学によつて是を清除すれば、忽ち消滅して元の位置にかへること疑ひなし。先にも語りし如く、生るれば悲しみ、死すれば悦ぶところの習慣あるに対して、生まるれば喜び死すれば悲しむ習慣性も、是皆伝統的気のはたらきに他ならず。是を論議するならば何れを是とし、何れを非とするや。唯いたづらに言葉の論争を交へて水かけ論と化するのみにて、明確なる判断に苦むのみならん。されど是等のものを清除せば、無用の論争の必要もなかるべき筈なり。すべては気のはたらきの方向をあやまち居るに他ならず。生るると云ふも迷ひなり。死すると云ふも迷ひなり。世人の定めし生死は我等に云はしむれば物の数にはあらざるなり。